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2009.07.21

お菓子手帖

 久しぶりに長野まゆみさんの本を手にしました。かわいらしい表紙に長野さんの本だとは気付かなかった。内容もお菓子を中心としたエッセイで、普段の男の子が出てきたり、純和風だったりする小説とはまったくちがう雰囲気。本の中にでてくるお菓子はどれもおいしそうなのだけど、特に目にとまったのはスコーン。わたしもレーズンやチョコチップの入ったスコーンってあまりすきじゃない。スコーンには何もいれない。砂糖もそれほどいれない。シンプルに焼き上げるのがいい。さっくり、しっとり。ブルーベリージャム(ボンヌママンがおすすめ!)か、瓶入りのメイプルシロップをかけていただく。そうして読み終えた次の日、母が朝食にスコーンをつくっていた。びっくり。

 わたしは他のひとたちとはちがう。特別とかそういう意味じゃなくて、ひととくらべて、色々なものがたりていない、ということ。わたしは中学にあがるまで、みんなとおなじように、ふつうにくらしてきたとおもってた。でもちがっていた。わたしはそれまでわたしの庭ばかりをみていて、他のひとの庭をみようとしてこなかったけれど。よく分かった。わたしは常識とか愛情とかそういうものが足りていない。そういえば、父からも母からも抱きしめられた覚えがない。父からはしにたいならしんでしまえといわれたし、母からはひたすらなぐられた。それから、ふたりから冷たくつきはなされた。それが当たり前だとおもっていた。
 上記の「お菓子手帖」の中にもあるけれど、宮沢賢治(さんづけをすると、なんだかよくわからないけれどしっくりこない)の本のはじめには必ず、「これらの小さなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうか分かりません」のようなことがかかれていて。(手元に本がないので正確ではないとおもいますが、こんな感じです)正に、わたしは、すきとおったほんとうのたべもの、がたりていないとおもう。それが何なのかだいたいわかっているけれど、うまく書けない。きっと、精神的に満腹(または、腹八分目)になる、ということだとわたしはおもってる。
 最近、ひもじさを感じることがおおい。すきとおったほんとうのたべものがたりなくて。そういうときはまわりのことをすべてわすれて、文章をひたすら書く。なるべく、わたしから切りはなしてかこうとおもうのだけれど、書きあがるとどれもわたしになってしまう。一緒にくらしているひとに抱きしめられたいけれどそれをいえない男の子のはなしや、からっぽな鎧のはなし、何千年も永く生きすぎたひとのはなし。文章にでてくるどのひとも、結局、すきとおったほんとうのたべものをもとめている。そういうはなしになってしまう。書いていて、むなしくなってくる。やっぱりわたしは、どこへいっても、何をしていてもわたし。どこへいっても、何かがたりていない。

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